こんにちは。今日もご訪問ありがとうございます。
今、我が家ではハウス内の引っ越しが盛んでして、そのおかげで6~7月の週末の時間の多くをその時間に使っています。
今から約20年前に家を建て替えたのですが、母が10年前に、そして昨年末に息子が亡くなったことで部屋が余ってきました。
そこで、妻・娘との3人で部屋をもっと有効に使おうということで、今までそれぞれで使っていた部屋を移動し、もちろん模様替えも行いながら新しい雰囲気で暮らそうと考えています。
そのハウス内引っ越しの中で、「所在を忘れていた多数の写真」が見つかりました。
今回のブログは、その写真をネタに書いてみようと思います。
9カ月間のアメリカ留学研修
僕は、今では個人事業主(法人化していますが、社員ゼロのスーパー零細企業)ですが、学校を卒業した後の約20年間は某企業に勤めていました。
具体的な社名は伏せますが、「米国発祥の赤いトレードマークの清涼飲料水の会社」です。(もうお分かりですよね、笑)
この会社には定年まで勤めるつもりでしたが、30歳代後半から始まった単身赴任生活がずっと続きそうだったこと、そして40歳を過ぎたときにちょっと大きな病気をしたことなどがきっかけとなり、今から10年ほど前に会社を退職することになりました。
その企業に勤めていた1997年のこと。
僕はアメリカに留学する機会を与えてもらいました。
家の中で見つかった写真とは、この25年前のアメリカ留学の時の写真です。たくさん撮ったことは覚えていたものの、どこに仕舞ったのかわからず、もしかしてもう捨ててしまったのではないかとも思っていた中で見つかったので、その時に嬉しさはハンパなものではありありませんでした。
今回のブログは、ちょっと自慢話みたいに見えてしまうかもしれず、もしそうなら誠に恐縮なのですが、老後に向けての自分の大切な思い出の記録としてブログに残すことにしました。
良かったらお付き合いください。
留学研修、3つの目的
この留学研修には、表向き3つの目的がありました。
それは
- ネイティブに混じって生活することで生きた英語を習得すること
- 社業発祥の地でビジネスを学び、それを将来の糧にすること
- 世界をリードするアメリカの経済や文化を肌で感じ、以て自己成長に繋げること
ということで、前年の12月に辞令が出て、2月までは国内で語学研修を受けます。
3月に渡米し最初の数か月は一般家庭にホームステイさせてもらいながら現地の語学学校で英語を学び、同時にアメリカの生活文化を体験しました。
6月には、現地の大学(ニューハンプシャー大学)の短期ビジネススクールで現地のビジネスパーソンたちとビジネス戦略を学びました。
一応は修了したものの、ネイティブに混じって英語で行われるビジネス戦略の講義を受けるのはかなり高いハードルでした。
そして最後の数か月は、勤めていた会社の関連企業(ニューハンプシャー州)や、ジョージア州アトランタにある本社で業務研修を受け、11月の終わりごろに帰国するというスケジュールでした。
ということで、この間にプリンストン(NJ州)、ガーデンシティ(NY州)、ボストン(MA州)、ダラム(NH州)、マンチェスター(NH州)等に住んで、最後は本社のあるアトランタ(GA州)を経て帰国しました。
一生忘れることのできない本当に夢のような9カ月間でした。
選抜のシステム
このアメリカ留学研修は、30歳前後の社員が毎年1名選出されるというもので、制度が出来て僕は5人目の留学生でした。(最終的に15人がこの留学研修生に選ばれたところで制度が終了しました。)
選抜されるための土俵に乗るためには、会社にて毎年実施される”若手~中堅向けのビジネス戦略研修”に参加することが必要です。
この研修はいわゆる自己啓発型研修で、受講するためには自腹で研修費を負担(とは言いながらも2万円程度)しなければなりません。
年に3回、土曜と日曜に実施される集合研修に出席する必要があり、それは自己啓発なので、この土日の代休は与えられません。
また同時並行で通信教育を受講し、修了しなければなりません。通信教育は仕事中には受講できません。
最終的には修了試験をトップクラスでパスし、その後の人事部で実施される審査で選ばれるという仕組みです。つまり「自己啓発に頑張ったらご褒美をやるよ」という餌で社員をやる気にさせるということですね。
留学生に選ばれるとそれまでの所属部署を離れ「人事部付」となり、そこからの1年間は一切の仕事実務から離れます。
敢えて言うなら学ぶことが仕事なのですが、かと言って資格を取ってくるとかTOEICが何点以上など、留学において求められるミッションがあるわけでもありません。
とにかく、アメリカで多くを学び、その経験を仕事に活かすという”緩やかで大らかなルール”でした。
夢のような9か月だった
こんな緩やかで大らかなインセンティブのような制度なので、往復の渡航費用、現地での学費や滞在費用は全額負担してもらった上に、自己研鑽予算として25,000ドル(約300万円)が支給されます。
勿論、この間の給与・賞与は別途支給されます。(無論、それは妻に差し押さえられていましたが)
この自己研鑽予算は、現地で自分の見識を深めるために自由に使っていいもので、僕は週末を使った旅行や、現地の人たちと食事をすることに使わせてもらいました。(下の写真はお世話になっていた現地の格安旅行会社のインボイス)
この軍資金は途轍もなくありがたいもので、9か月の滞在期間内にこの自己研鑽予算を使って行った都市は、
「2~3月 プリンストン滞在時」
- ニューヨーク(NY)、フィラデルフィア(PA)、ワシントンDC
「4~5月 ガーデンシティ滞在時」
- オーランド(FL)、ダラス(TX)
「6~8月 ボストン滞在時」
- グランドキャニオン(AZ)、ラスベガス(NV)、ハワイ(HI)、サイパン(北マリアナ諸島)、ナイアガラフォールズ(カナダ)、オーランド(FL)※2回目
「9~10月 マンチェスター滞在時」
- カンザスシティ(KS)、セントルイス(MO)、マイアミ(FL)、キーウエスト(FL)、オーランド(FL)※3回目
と、こんなところでしょうか。
今、振り返れば、本当に夢のような9か月間だったと思います。
最初はホームシック
1996年の12月の初旬、留学に派遣することを内定したと会社から連絡があり、同時に意思確認がありました。
このアメリカ研修では、一旦渡米すると会社から帰国指示が出るまで日本に帰ってきてはダメというルールだったので、家族を残して単身赴任することに問題は無いか?というお尋ねです。
実はその頃、妻は第2子を身籠っていて臨月でした。実際には12月28日に息子が誕生し、第1子の娘はまだ3歳でした。なので、出発を数か月先にずらせないか人事部に働きかけたものの答えはNO。
仕方なく妻に相談したところ、快諾してもらえました。僕が言うのもヘンですが、ホントに良妻賢母なのです。
(上の写真は出発直前の関西空港にて)
しかし、可愛い盛りの娘と生まれたばっかりの息子を妻に全面的に託し旅立つことはやはり辛いもので、出発間際の関西空港で娘を抱きしめて号泣し、渡米直後はえげつないくらいのホームシックに罹ってしまったことを覚えています。
とはいえ、1週間も経てばホームシックは治りましたけどね(笑)
サイパンで家族と再会
一方、僕がボストン(MA)に滞在中の6月、たった2日間でしたが妻や子どもたちと会える機会がありました。
その家族と再会できた場所は、なんと太平洋のど真ん中・北マリアナ諸島にあるサイパン島でした。
サイパンは太平洋戦争の激戦地ですが、その近くにあるグアムと並んで日本人には人気のリゾート地。
このサイパンは、僕の母の父親、つまり祖父が戦死したところなのですが、従弟(母の姉の息子)がサイパンで結婚式を挙げることとなったことで、祖父の墓参りを兼ねて親族がサイパンに集まることとなりました。
当然、新郎の叔母である母はサイパンに行くことになり、母は僕の代わりに妻と子どもたちを連れて行ってくれるとのこと。
それはそれで有難いのですが、どうせなら僕も参加したいという思いが強くなり、その時の滞在地・アメリカ東海岸のボストンから北米大陸を横断し、さらに太平洋を渡って駆け付けることになったのです。
数カ月ぶりに家族と会えて、それはそれは嬉しいものでした。あんな嬉しい思いをしたことは生涯無いと思うくらいです。
日本を離れたときは、まだ生後2か月だった息子が大きくなっていたことに驚き喜んだものの、息子から見れば僕は「どこかの知らないオッサン」なので、結局は最後まで抱かせてもらえませんでした(笑)
娘も最初は余所余所しい感じもしてたようですが、それはすぐに慣れてくれました。(安心しました)
でもそれもたった2日間のこと。またホームシックに罹りながら一人ボストンへ帰りました。
アメリカの片田舎で家族と同居
しかし、その3か月後、マンチェスター(NH)でマンションを借りて一人暮らしを始めたとき、満を持して妻たちを呼び寄せました。帰国するのはダメだけど、家族が遊びに来ることは構わないということだったのです。
そこで、妻に聞いてみると「一生に一度の機会だし、子どもたちの良い思い出になるかも」ってことで是非行きたいいうことで、妻は3歳の娘とまだ乳児だった息子を連れて、伊丹から成田経由でニューヨークのJFK国際空港まで来てくれました。
下の写真はマンチェスターで住んでいたマンションで撮ったものです。
妻たちがニューヨークに到着後、まずはマンハッタン観光に連れて行き、妻たちの時差ボケを治した後にオーランド(FL)のディズニーワールドへ連れて行ったりもしたのですが、妻はアメリカのリゾートのスケールの大きさに驚いていました。
このアメリカでの家族同居はたった1か月でしたが、一緒に暮らすことが出来たことは今でも楽しい思い出です。
ニューハンプシャー州のマンチェスターというアメリカの田舎町ですが、むしろそれが良かったようで、日本とは大きく異なるスーパーに買い物に行くことが楽しかったようですし、娘は遊具が併設されているマクドナルドが大好きでした。(その事を娘は殆ど覚えてないそうですが)
妻たちが日本へ帰る時はNYのJFK国際空港まで送っていきましたが、彼女たちが乗ったANAのB747が見えなくなるまでターミナルの屋上から見送ったことを覚えています。この時も寂しかったなあ。
さてこの話はまだまだ続くのですが、それはまたの機会にしようと思います。
とにかく今は、当時に何百枚も撮った写真を見るのが楽しくて、その写真の一枚一枚を思い出しながら、また思いついた時にこの続編を書いてみようかと思っています。
その時はまたお付き合いくださいね。
(たぶん、つづく)
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