こんにちは。
大変ご無沙汰しております。久しぶりのブログ投稿です。
実は今年の桜の時期あたりから、妻が不調を訴えています。詳しく検査をしてもらった結果、深刻な病気ではないようなのですが、本人が苦しんでいる時に遊びに出かけることは控えておくべきと思い、4月の上旬以降は仕事でやむを得ない時を除いて自宅に引きこもっています。
バイクに乗るのは、暑い夏が去った後になりそうです。これも妻の症状が改善していたらという前提ですけどね。
さて、今回のブログは僕の病気の話です。
昨日(6月29日)、15年間お世話になった「国立大阪医療センター」への通院が終わりました。
結論から言うと、15年前に少し大きな病気をしたことが同病院に通うきっかけだったのですが、この度、根治という診断を頂いたのでその記念にその闘病記をブログに認めておこうと思います。
最初の診断
2008年の春ごろ、左足の付け根部分(鼠径部というそうです)に親指くらいの小さなコブができました。
気になったので、近くの小さな病院で診てもらったところ「それは”粉瘤”というもので心配はない。ただコブが大きくなることがあるので、その場合は切除しないといけないかも」という診断でした。
念のためにセカンドオピニオンを得ておこうと別の病院に行ったところ、同じ診断でした。
コブが大きくなってきた
僕は2006年から仕事の関係で博多(福岡県)に単身赴任しておりました。
そして、その仕事先の関係でかの有名な祭り「博多祇園山笠」にも参加させて頂きました。
その時の衣装は「半纏に褌」なのですが、鼠径部にできたコブは褌からはみ出るくらいにまで大きくなっていました。
無論、恥ずかしいし、気にもなっていたのですが、「粉瘤」「心配はない」という二人の医師の言葉を信じていましたし、仕事の関係で手術となると入院が必要で、そんな時間もとれない状況だったのでその後も放置していました。
2度のCT検査を経て・・・
そして2008年の終わり頃には、そのコブは拳(こぶし)よりも大きくなってしまったこともあり、また仕事もひと段落したことから切除してもらおうと自宅近くの少し大きな病院に行き、念のためにCT検査をうけたのですが、その時の医師の所見は「粉瘤とは思えない」ということでした。
そして、大きな病院で精密検査が必要とのことで、東大阪市立中央病院を紹介されました。
そして、同病院でも改めてCT検査を受けたのですが、その診断は明確にはしてもらえず「国立大阪医療センターに行ってほしい。そこにはこの病気の専門医がいる、最新鋭の検査設備がある。詳しく診てもらって下さい」というものでした。
この段階で、嫌な予感はマックスでした。
国立大阪医療センターへ
そして、その紹介状を持って国立大阪医療センターへと行った訳ですが、MRIや細胞からの病理検査の結果、下った診断は「左鼠径部軟部悪性腫瘍」というもので、早々の手術が必要であるとのことでした。
担当の先生の説明によると、悪性度のグレードが高く、またこの腫瘍の特徴は肺に転移することが多く、そうなると予後が悪くなるということで、5年生存率は60%以下なのだそうです。
最悪の事態になったと絶望しかけましたが、幸いにも、担当のK先生はこの病気の専門医としては全国に名を知られた方だそうで、こうなったらK先生を信じて全てを委ねるしかありません。
手術・入院
一方、年が明けてもすぐには入院できず、結局は2月に入ってからの入院だったと思います。
入院し、改めて色々な検査を受け、やがて手術となりました。幸いにもきれいに切除できたそうで、その後は約1ヶ月半の入院となりました。
最初の2週間はベッドに寝たきりで、腰や背中が痛く、おまけに持病の痛風が発症してしまったことで、患部だけではなく、腰、背中、そして左足親指にも激痛がある中の最悪の14日間でした。
今となっては笑い話ですが、寝たきりになることで血栓ができることを防ぐ(いわゆるエコノミー症候群を防ぐ)ために、エアーで締め付けたり緩めたりする器具を両足の太ももからつま先に装着していたのです。
痛風が発症した左足にこの器具が装着されることで「傷口に塩」どころではない激痛で、手術後の痛さより、痛風の方が100倍痛かったことを思い出します(ここは”笑”です)
WBCに興奮
病室は個室に入室できたので、プライベートな空間は確保されていました。
そして、ちょうどWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)2009年大会が開かれていた時なので、僕はほぼそのテレビ観戦に没頭していました。
あのイチローの韓国戦での決勝タイムリーの時は、興奮して大声を出してしまったので、看護師さんが何事かと部屋に飛び込んできたことを覚えています。
その看護師さんもWBCのことは気になっていたらしく、二人で大喜びしたものでした。
一方、左足の付け根の主要部分を切除しただけに、最初の2週間はベッドに寝たきりです。その後は杖を使って病棟内を歩くことを許された(というか、車いすの使用は不許可となった)わけですが、たった2週間でも自分の足で立つことをしなかったことで、足の筋力がかなり弱っていることに気づきました。
やはり使わないと衰えていくものなのですね。
退院と自宅療養
退院したのは4月の中旬頃だったでしょうか。
退院後もまだ満足に歩けないので会社に出社することはできず、約2か月間は自宅で療養することとなりました。
いつもなら数十秒で行ける近くの神社にも数分かけて歩いて行き、たまに妻が運転する車に乗ってスーパーへの買い物についていくことがリハビリとなっていました。
その後は、妻と二人で車に乗って京都や奈良に行き、少し散歩するという日々を送れたことは幸せでした。
一方、退院した最初のころは1週間に一度病院に行き、患部の状態を診てもらい、その後は1ヶ月に一度の通院で患部の状況チェックと肺のレントゲン検査。
やはり先生は肺への転移を心配しておられたようです。レントゲンの多用は被ばくの心配はあるのだけど、こちら(肺転移のチェック)を優先しますとの説明がありました。
通院は続く
時が経つにつれ通院の頻度も下がり、術後5年が経過した時(2013年ころ)には、先生から「一応は5年が一つの目安となる。ここまで何もなかったのでもう大丈夫だとは思うが、あなたさえ良ければ半年に一度くらいのペースで通院してはどうか」という提案を頂きました。
こちらとしては診てもらえるのは有難いことなので先生の提案通り、半年に一度のペースで通院させてもらうこととしました。先生の顔を見るだけで安心できますものね。
15年目の根治判定
そして、2023年6月29日。1年ぶりの通院です。
この時、K先生から、「あれから15年になる。もう根治とみなしていいのではないか」というお話がありました。
もう診てもらえなくなるという不安と、病気を克服できたという喜びとが交錯する複雑な気分ではありましたが、先生のお墨付きを頂けたということを素直に受け止め、ありがたくその提案を受けることとしました。
15年もの長きに亘って面倒を見て下さったK先生には感謝しかありません。
5年生存率は60%以下ということは、同じ病気に罹った人の半分近くは5年以内になくなるということですから、下手をすれば今年あたりは僕の13回忌だったかもしれません。
K先生、命を助けて頂き、そして長きに亘って診て頂き、本当にありがとうございました。
健診と早期治療
今回の病気では、最初に二人の別の医者がともに「粉瘤」という診断を下していたのですから、疑うべくも無かったということなのですが、やはり心配を取り除けるまで妥協してはダメですね。
それと、生存率が低くても、諦めたらダメだと思います。諦めたらそこで終わりです。
可能性を信じ、医師を信じ、自分を信じて病と闘うことが大切だと思います。
K先生からは、「これからも健康に留意して、料金は高いけど人間ドッグなんかもしっかり受けた方が良いですよ」と助言を頂きました。
そのお言葉を胸に、残りの人生をしっかり楽しく過ごしていきたいと思います。
さて、バイクに乗ってツーリングに出かけるのはもう少し先(妻の病気が完治してから)になると思いますが、その時のために今はツーリングプランの作成に勤しんでいます。
またこのブログでツーリングレポートを見て頂ける日が戻ってくることを楽しみにしています。
これからもよろしくお願いします。
(おわり)
今回もありがとうございました!